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近年のカンボジアの戦争

ポルポト派の虐殺と戦争
1951〜1999
1953年、ノロドム・シアヌーク国王のもとでカンボジア王国が独立を果たす。
1967年カンボジア共産党クメール・ルージュが反シアヌークを掲げて闘争を開始した。
1970年、アメリカの支持を得たロン・ノルによるクーデターが起こり、王政廃止。
また、70年代にはベトナム戦争におけるホーチミンルート閉鎖の為、カンボジアには第二次世界大戦で日本へ投下した弾薬の3倍もの弾薬が米軍により投下された。
その結果、農村部は大打撃を受け食料輸出国から食糧輸入国へと転落した。
1975年、クメール・ルージュはカンボジア国名を民主カンボジアと変更。
農村部の壊滅的打撃により食糧危機回避の為、プノンペンなどの大都市住民、資本家、知識人から一切の身分、財産を剥奪し農村部に強制移住させた。
学校、病院および工場も閉鎖し、銀行業務どころか貨幣そのものを廃止し宗教を弾圧し一切の私財を没収した。
移住させられた人々は集団農業で従事させられる一方、知識階級人は反乱を起こす可能性があると殺害された。
クメール・ルージュは共産圏の拡大を図りベトナムに侵攻。
クメール・ルージュは中国の支援を受け、ロシアはクメール・ルージュ追放にカンボジアに進軍したベトナムを一貫して支援
ベトナム軍によりタイとの国境付近まで追いやられたクメール・ルージュを今度はアメリカとタイが支援
資本主義・共産主義・王制の三大勢力の代理戦争により国土の端から端までが戦場と化した。

 

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